小柄な若手力士の代表格と言えば…照強関ですよね!
真っ向勝負で、自分よりも大きい相手を、バタバタ倒すのが男らしいところ。
そんな照強関の素顔はどんなものなのか、気になっている方もいることでしょう。
実は中学時代はヤンキーで、相撲の稽古をさぼっていたのはご存知でしたか?
この記事では、照強関の魅力を余すところなくお伝えいたします!
照強の家族構成は母と妹の3人家族
照強関の本名は福岡翔輝(ふくおか しょうき)さんです。
四股名(しこな)の照強は「てるつよし」と読みます。
家族構成は、母親の菊井真樹さんと、妹の菊井沙希さん。
どうして家族で苗字が違うのか、気になりますよね?
照強関はとても家族思いで有名ですが、そのキッカケとなったのが、ご両親の離婚でした。
照強関が小学3年の時に、ご両親が離婚するも、苗字を変えなかったこと。
そこには、深い理由が含まれていたのです。
照強が苗字を変えなかった理由は姓名判断だった!
両親の離婚後も、母親の菊地姓にせず、父親の福岡姓のままにした理由。
それは姓名判断で、運勢が大きく変わる結果が出たためです。
試しにネットで占える姓名判断サイトで調べてみたところ…
菊井翔輝よりも、福岡翔輝の方が総格(総運)では6つも勝っていることが判明!
母親が、別れた元夫の苗字を息子に受け継がせる。
心情的には変えたくなるハズです!
この英断は、照強関の将来を見据えてのものだったのでしょう。
敬服に値する決断だと思います。
照強の妹がカワイイ!兵庫県で看護師に
妹さんの名前は、菊井沙希さんとご紹介させていただきました。
兄と違って、ご両親の離婚後、母方の旧姓にされたのですね。
苗字は変わっても、兄妹の仲の良さは変わらなかったのでしょう。
現在、沙希さんは兵庫県内の看護系大学に通う毎日。
照強関は、妹の大学の受験費用を工面してあげたとか。
とても良いお兄ちゃんっぷりですね!
沙希さんも、そんな頼もしいお兄さんのことが大好きだそうです。
一緒に写った写真からも、兄妹仲の良さが伝わって来ますね!
照強の祖父のためにお墓の費用【200万】を全額負担!
家族思いの照強関は、中学時代※に亡くなった祖父のお墓代も工面していました。
※2016年9月に肝臓がんで逝去
妹さんだけでなく、亡くなられたお祖父さんのことも、本当に大切になさってたんですね!
実は、照強が角界入りしたキッカケは、祖父の遺言でした。
祖父の菊井龍夫さんに生前から「力士になれ」と言われ続けていたのです。
その遺言を守って中学卒業後は大相撲※に入門。
※相撲道場の監督と師匠が知り合い=伊勢ヶ濱部屋(元横綱・旭富士)に入門
父親が家庭からいなくなった後、お祖父さんが一家の父親代わりになっていたのでしょう。
幼かった照強関も、きっと祖父のことを尊敬されていたのでしょうね。
照強は元ヤンキーだった中学時代
元ヤンだった中学時代はどんな少年だったのか、見ていきましょう!
照強が相撲を始めたキッカケは小4の相撲大会
照強関が相撲に取り組むきっかけとなったのが、小学4年生の時の「わんぱく相撲の大会」でした。
飛び入り参加で2位になると、本格的に相撲を始めるため、地元の相撲道場に通うことに。
中学生の頃には、全国大会でベスト16の好成績を残しています。
とはいえ、所属していた相撲クラブの稽古は、非常に厳しいものでした。
38度の熱で休んだ翌日の稽古では、監督から竹刀で殴られたことも!
「40度なら休んでもいいが、39度なら見学だ!38度なら稽古してるうちに治る!!」
この厳しい稽古に耐えて続けた成果が、今の力士人生に繋がっているとしたら…。
一見、厳しすぎるように感じるスパルタ教育も、効果があったことになりますね!
相撲をサボってヤンキー化!遊び惚けたのは中3のとき
照強関は、ずっと相撲一筋だったわけではありません。
通学していた中学校には相撲部が無く、サッカー部に所属してゴールキーバーをしたことも。
中学も3年生になるころには相撲道場には通い続けたものの、学校には通わず遊び惚けていました!
最期には出席日数が30日しかなくなるまで、夜通し遊び続け荒んだ毎日を過ごすように。
これは、ヤンキーの仲間入りをしてしまったことが原因です。
髪も黒から金髪に染め上げて、ぶいぶい言わせて肩で風切って歩いていた様子。
担任から呼び出しを食らうことも日常茶飯事だったようです。
とはいえ、ヤンキー時代の経験が、角界入りしてから役立つことに…??
ヤンキー化の思わぬメリット!角界一のおしゃべりに
多感な思春期をヤンキーとして過ごしたことが、のちに角界入りした照強関にとってプラスに作用しました。
なぜなら、照強関は「角界一のおしゃべり」と言われるほどの、話好き。
このコミュニケーション能力の高さは、ヤンキー時代に養われたのでしょう。
中学卒業後、高校に進学しなかったのは、勉強嫌いだったということもあります。
きっと話すことや体を動かすことが、大好きで得意なんでしょうね!
派手なパフォーマンス(塩撒き)になったのも、ヤンキー少年として過ごした中3の経験があったからでしょうか?
照強は淡路出身=生年月日が運命的だった!
照強関は兵庫県淡路島の出身です。
しかも、生年月日は1995年1月17日。
つまり、阪神・淡路大震災の当日に生まれていたんですね!
それゆえ幼い頃は、「地震くん」とあだ名されたこともあったそうです。
嫌なあだ名をつけられたものの、本名の翔輝(はばたく・かがやく)という、名前に恥じない生き方をするようになります。
毎年黙とう!自分の運命を受け入れる芯の強さ
毎年1月17日の朝には、震災の犠牲者たちに黙とうをささげてから土俵に上がる。
照強関は、これをずっと続けているんです。
自分が力士として頑張る姿を見せることで、故郷の人たちを笑顔にしたい。
元気付けたいという思いが込められているんです。
ひねくれることなく、自分の運命を受け入れて頑張る姿。
照強関を応援したくなるのも納得です!!
照強の四股名の意味は?小柄な力士でも負けない理由
照強関の四股名(しこな)の由来は、「強くなって周りを明るく照らす力士になれ!」というもの。
伊勢ケ浜親方がそう名付けました。
体重の軽さを補うために、スピードを活かした取り組みが得意技。
左差しを浅く取って拝むようにしつこく攻める相撲で、人気を集めるようになりました。
低身長の小柄な照強関でも勝てる理由!
照強関は、同じく小柄な若手力士の炎鳳関に次いで、2番目の低身長。
入門時には、167cmと新弟子検査の基準ギリギリ!
中学卒業後15歳で角界入り、入門を果たした照強関ですが、当時は体重が85kgくらいしか無かったんです。
体重を増やすために、1食でラーメン用のどんぶり3杯分のご飯を食べ続け、現在は130kgまで増量に成功!
体格差で劣る分を稽古の量でカバーしようと、毎日100番近い取り組みを続け、実力を身に付けました。
兄弟子・日馬富士関のアドバイスで稽古量が3倍に!
兄弟子の元横綱・日馬富士関から「小さいんだから人の3倍やらないとだめだよ」と受けたアドバイスも。
伊勢ケ浜親方のススメもあって、筋力トレーニングも追加!
そのことを忘れず稽古を続けた結果、前まわしを取れば大柄な力士とも、互角に渡り合えるようになっていったのです。
照強関は初土俵からわずか6年で関取に昇進!
現在は廃止されましたが、第二新弟子検査に合格。
照強関は2010年(平成22年)3月場所で初土俵を踏みました。
その後わずか6年で関取に昇進!
2016年(平成28年)11月場所で照強関は、当時西幕下9枚目で7戦全勝でした。
「1年に1回、チャンスが来れば良い方なのに、2度もチャンスがある。経験を生かしたいです」と話していたそうですよ。
照強関はメンタルも強靭なのが伝わって来ますね!
照強の耳の形が特徴的!ぎょうざ耳は猛稽古の勲章?
照強関の耳の形が、ちょっと変わっていることに気が付かれましたか?
これは柔道や格闘技をしていて、寝技を練習するうちに、耳の形が変わってしまうことが原因です。
ぎょうざのような耳の形になったのは、猛稽古に取り組んだ証拠。
照強の耳がすげ~変形してる。稽古のあらわれか。 pic.twitter.com/g02K7N4Jj7
— ターミネーターおかん(くつひも) (@okannkuthuhimo) 2016年11月25日
幼少の頃は病弱で、よく風邪を引いてしまう子供だった照強関。
それでも気が強く6歳のころには親の名前ですら呼び捨てにする、やんちゃぶりを発揮していたとか。
生まれ持ったメンタルの強さで、病弱な体質も改善されたんです。
照強まとめ
淡路島出身の関取は、1961年九州場所の若鳴門(春日野)以来、55年ぶりのこと。
照強関への期待が高まるのも納得です!
これまでご紹介してきた通り、肉体的にも精神的にも素晴らしいものがあります。
そんな身も心もたくましい照強関の、今後の取り組みが楽しみな方も多いことでしょう。
派手な塩巻きスタイルで、今後も大相撲を盛り上げてくれるハズ。
さらなるご活躍を心から応援しています!