日本を代表する俳優の一人・中井貴一さんは映画やドラマ、テレビCMなどでご活躍中です。
ダンディで渋い演技にファンの方の心をとらえて離さない魅力。
その原点となったのは、中井貴一さんの父親が俳優だったことが理由でしょうか?
父親の中井寛一さんは、芸名・佐田啓二さんという方で昭和を代表するトップスター。
「君の名は」と言えば新海誠監督のアニメ映画を思い出す方も多いでしょう。
その元となった実写版「君の名は」で岸恵子さんと共演したことで、名実ともにナンバーワン俳優の座に付きました。
そんな佐田啓二さんから、息子の中井貴一さんはどのような影響を受けたのか?
また、死因が事故死ということで、中井家はどのような悲劇に見舞われたのか?
気になりますよね。
この記事では、父親の佐田啓二さんを中心に、中井貴一さんの俳優人生について分かった事をお伝えします!
中井貴一の父親の佐田啓二はどんな人だったの?
中井貴一さんの父親の中井寛一さんは、京都市下京区の商家に生まれ育ちました。
頭も良く、早稲田大学政治経済学部に入学されていたわけで、当初は俳優になるつもりはなかったんですね。
ところが、当時下宿していたのが松竹の人気俳優・佐野周二さんの自宅でした。
見た目がイケメンで、人気が出ることが分かっていたからか、中井寛一さんは20歳の時に俳優の世界へ飛び込みます!
佐田啓二が有名俳優になった作品~不死鳥・鐘の鳴る丘・君の名は
芸名・佐田啓二は佐野周二さんの姓名から2文字分譲り受けて、名づけられたとか。
松竹入りした翌年の1947年になんと、木下恵介監督の『不死鳥』で、いきなり、大スター田中絹代の相手役に大抜擢!
当時、日本映画史を代表する大女優だった田中絹代さんのお相手役ということで、一躍有名人の仲間入りを果たします。
この成功が元となり、菊田一夫原作のNHKの人気ラジオドラマを映画化した『鐘の鳴る丘』で、主演を果たすことに。
そんな、佐田啓二さんの人気を不動のものとしたのは、1953年に公開された『君の名は』でした。
その元となったのは、1952年から1954年に日本のNHKラジオで放送された「君の名はのラジオドラマ」だったのです。
君の名は~恋愛作品の方程式は冬のソナタにも採用されていた!
『君の名は』の影響力はすさまじく、当時は「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」と言われたほど。
そのあまりにもとてつもない人気が過熱したため、後にテレビドラマや映画化されるきっかけとなりました。
(ヒロインの真知子と恋役の春樹の2人が、会えそうで会えない焦らしの展開と描写は、後の恋愛ドラマの方程式にもなりました。)
戦後間もない当時は、恋愛をテーマにした映画作品はまだ少なかったため、女性ファンのハートを鷲づかみにした『君の名は』。
『君の名は』は、『不死鳥』や『鐘の鳴る丘』で人気が急上昇中だった、佐田啓二さんの代表作になりました。
この恋愛ドラマの方程式を採用した作品で有名なのが、韓国の大ヒットドラマ「冬のソナタ」。
ユジン役のチェ・ジウとカン・ジュンサン役のペ・ヨンジュンの、すれ違いにヤキモキさせられた方も多いと思います。
国内の恋愛ドラマだけでなく、海外の作品でもこのパターンが採用されていたんですね!
中井貴一の父親の佐田啓二の死因は交通事故だった?
佐田啓二さんの晩年は、恋愛作品にとどまらず、癖のある悪役も演じられていました。
(木下恵介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』や小津安二郎監督の『秋刀魚の味』など戦後を代表する作品に出演)
晩年と書きましたが、佐田啓二さんの享年はなんと37歳と言う若さ!
当時あまりの衝撃的な結末に、多くの佐田啓二ファンが佐田ロス状態に陥ることになりました。
佐田啓二の事故が起きたのは無理な追い越しだった?
痛ましい事故が起きたのは、1964年8月17日午前6時30分頃のこと。
乗車していた乗用車が前方の車を追い越そうとした際に、塩川橋の欄干に衝突、さらに暴走して別の乗用車へも衝突する事故に。
佐田啓二さんは、この事故で頭部と右腕を骨折!
すぐに近くの韮崎市立病院に運ばれたたのですが、午前11時過ぎ頃に死去と言う残念な結果になってしまいます。
どうして乗用車は無理な追い越しをしようとしたのでしょうか?
その理由は、佐田啓二さんが売れっ子俳優だったことが原因だと言われています。
父親の佐田啓二と母親の杉戸益子が知り合ったのはレストラン?
1964年8月13日の夏に、佐田啓二さんは嫁の杉戸益子さんたちと、避暑のために長野県の別荘に来ていました。
杉戸益子さんは、中井貴一さんの母親で、父親の佐田啓二さんとは1957年02月28日に結婚されていました。
(2人が知り合うキッカケとなったのは、大船撮影所前のレストラン月ヶ瀬の主人の姪だったこと)
佐田啓二が交通事故死したのはシートベルトを着用してなかったため?
売れっ子俳優の佐田啓二さんが、避暑地での休暇をのんびり過ごせるはずもなく、東京にとんぼ返りすることになります。
早朝に、運転手と関係者を合わせた4人が別荘から東京に戻るために、いつもより乗用車のスピードを上げていました。
前方の車を無理に追い越そうとしたところ、謝って塩川橋の欄干に衝突し、その勢いで別の乗用車にも接触!
勢いはとどまらず、車は大破し、佐田啓二さんはこの事故が原因で急逝することになってしまいました。
当時は、まだシートベルトの着用が義務付けられていなかったため、頭部の骨折の影響が甚大だったのでしょう。
乗用車の後部座席に座っていた佐田啓二さんも、とっさのことで身構える暇もなく、病院に運ばれてわずか5時間後に死亡。
交通規則が現在よりも、はるかに緩い昭和の時代の不幸な事故だったんですね。
幼子だった中井貴一は2歳で父親を亡くしていた!
交通事故による突然の別れ。
この時、中井貴一さんはまだ2歳という幼子だったんです。
3歳の誕生日を目前にして、物心つく前に、父親を亡くしてしまったことは大変悲しい事件ですね。
中井貴一さんの姉の中井貴恵さんは、当時小学1年生で6歳だったため、記憶が残っているハズ。
残された家族を養うために、杉戸益子さんは、二人の子供を厳しく育てられたそうですよ。
ちなみに、姉の中井貴恵さんは、女優でエッセイスト。
中井貴一さんの名付け親は、小津安二郎監督です。
中井貴一は父親の佐田啓二を亡くした後にどんな人生を送って来たの?
二枚目俳優として活躍した父親・佐田啓二を交通事故で亡くした後、中井貴一さんはどんな人生を辿ったのでしょうか?
実は、高校時代はテニスに熱中していたため、コーチを職業にしようと考えていたんです。
中井貴一さんは赤面症で、人前で演技するなんてとんでもない!と考えていたのでしょうね。
ところが、父親・佐田啓二さんの17回忌の法要の際に、映画監督の松林宗恵さんにスカウトされることになります。
岡本喜八と並ぶ東宝のエース監督と呼ばれた松林宗恵監督の、『連合艦隊』に出演を果たしたのは何故でしょうか?
中井貴一さんが、本格的に俳優としての活動を開始したのは、成蹊大学在学中の1981年のこと。
父親が昭和の名優・佐田啓二だったことを周囲から聴かされても、実際にどんな人物だったのか知ることが出来ませんでした。
肌のぬくもりや声すらも、感じたことが無かったんですね。
記憶にない父親のことを意識し始めたのは、小学生の頃に、中井家が映画で父親の姿を観に行く習慣をとりいれたことでした。
丸の内のフィルムセンターで、家族で列になって、佐田啓二さんの映画を観ていた幼少期の原体験。
父親のぬくもりを知らず、声も映画を通じてしか知ることが無かったことが、俳優業に飛び込んだ理由でした。
自分の将来を決めたのは、亡き父親と同じ仕事をすることで、父親の背中を見たい・感じたいという気持ち。
これが、中井貴一さんの人生を決定づけるものとなったのです。
その気持ちがくすぶり続けて、大学生時代に爆発し、『連合艦隊』に出演した中井貴一さん。
『連合艦隊』で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞、華々しいデビュー作となりました。
中井貴一は父親の佐田啓二の享年を超えたから結婚した?
中井貴一さんが父親から受けた影響力は、図り知れません。
独身のイケメン俳優として、長らく独身貴族時代を過ごして来たのですが、結婚したのが2000年の39歳の誕生日の事でした。
中井貴一が一般人の吉谷麻友子と結婚したのはおそば屋デートがキッカケ?
中井貴一さんの嫁の吉谷麻友子さんは、5歳年下の一般女性。
知り合ったキッカケは、中井貴一さんの誕生日パーティーに、吉谷麻友子さんが出席されたことがキッカケだと言われています。
友達の紹介で知り合った2人でしたが、当時は多忙でデートをする暇もなかったとか。
それを解消するために、中井貴一さんは一計を案じます。
それが、立ち食いそば屋でのお食事デート。
付き合いだした彼氏と彼女が2人で入るには、ちょっとだけ勇気が必要になる場所ですよね?
中井貴一さんの学生時代からお気に入りだった立ち食いそば屋でしたが、どうしても時間を工面できずに、おそば屋デートを敢行!
それでも、嫌な顔一つ見せずに「おいしいね」と笑って、一緒におそばを食べてくれた吉谷麻友子さん。
その表情を見た中井貴一さんは、心から安心して、長くやっていけそうだと判断したのでしょう。
中井貴一はテニス選手の伊達公子と結婚直前だった?
実は、中井貴一さんは吉谷麻友子さんと一緒になる前は、伊達公子さんと交際されていました。
テニスプレーヤーとして世界4位になったこともあった、有名選手ですよね。
人気俳優の嫁になることについて、伊達公子さんの母親や姉も反対したことで、2人は破局を迎えてしまいます。
俳優とプロスポーツ選手だと、どうしてもすれ違いが生じることが多く、夫婦仲も冷めてしまうことを懸念されたのかもしれません。
また、37歳と言う若さで亡くなった父親・佐田啓二さんのことが、気がかりだったとも言われています。
中井貴一さんは、自分の運命に関して、ずっと気にしてきたこともあり、自分も37歳で死ぬのでは?と不安だったそうです。
俳優業をこなしつつも、自分の運命への不安を抱えていた中井貴一さんに、寄り添い励まし続けたのが嫁の吉谷麻友子さんでした。
38歳の誕生日を無事に迎えることが出来たことを喜び、大勢の友達を集めて盛大にお祝いをしたそうです。
2人が結ばれるのも納得と言いますか、何か運命的なつながりを感じさせますね!
中井貴一の父親・佐田啓二まとめ
以上、中井貴一さんの父親・佐田啓二さんを中心にお伝えしました。
偉大な父親を持つものの、父親との記憶は映像だけしかなかった中井貴一さん。
父親と同じ俳優業へ身を投じることになったのは、運命的で宿命ともいえるものでした。
テレビCMのミキプルーンや、DCカードでもよく顔と名前を憶えている方もいらっしゃるかもしれませんね。
そんな中井貴一さんですが、出身校の成蹊大学の先輩である、安倍晋三首相とも交流があるそうです。
連合艦隊で新人俳優賞を受賞、その後も主演男優賞や、助演男優賞など数々の受賞歴がある実力俳優。
今や日本の映画界に欠かせない存在となった、中井貴一さんのさらなるご活躍を心から応援しています!
最後まで読んでいただいてありがとうございました。